磁器口はもともと嘉陵江下流の市場町で、宋の真宗の時代に記録に現れ、明の時代には水陸の重要な港になっていた。貨物はここで船から降ろされ、陸路で町や周辺の村へ運ばれた。この川は下流で重慶の町に通じ、上流では諸県に接する。地名の「磁」はもともと「瓷」、すなわち磁器を指した。川沿いの磁器づくりは長くこの地の主要産業で、竜隠鎮から改名するときに「瓷」の字が「磁」と書き誤られ、そのまま定着した。清の末が最盛期で、古い記録は「昼は千人を見、夜は万の灯をともす」と街の賑わいを記す。実際に残ったのは地面そのものだ。石畳、木造の店先、そして港から背後の尾根へ一段ずつ上る路地である。
雑誌から
磁器口――岸から坂をのぼる港町
嘉陵江の明清磁器港が、戦時首都の文人たちの宿り場になった経緯を、石畳の路地と釘を使わない寺からたどる。
同じ街をめぐる · 沙坪垻区 ↗磁器と港
寺、屋敷、路地
旧市街には十二本の路地があり、多くは石畳で、両側に木造の店が並ぶ。古い建物の一群が今も町の輪郭を決めている。宝輪寺の本堂は明の時代、今から約六百年前に建てられ、骨組みに釘を一本も使っていない。本堂の上の四字は趙朴初の筆になる。鍾家院は百二十年以上前に建てられ、清の末期の宮廷宦官の屋敷だったが、同じ中庭に北方と南方の建築作法を併せ持つ。近くには木、石、煉瓦を用いた巴渝の民家があり、かつて一族の学校だった翰林院もある。そこを出た生徒は科挙の試験を受けるために都へ向かった。
戦時の客
国民政府が重慶へ移ると、磁器口は政府とともに内陸へ来た人々の居場所を用意した。郭沫若、徐悲鴻、豊子愷、傅抱石、巴金、氷心は、いずれも戦時この町に住んだ。来た理由は各省庁と同じだった。川が道であり、部屋が安かった。中国語の記録はこの町を沙磁文化の発祥地と呼ぶ。沙磁とは沙坪垻と磁器口を合わせた名だ。町が提供したものは具体的だった。市場、川を行き交う船、茶馆、廟会、竜舞、竜舟競漕、四川劇を楽しむ集まり、そして四川劇そのもの。市場と船と茶と舞台が、この川辺の町の日々をつくっていた。

