酉陽は古く酉州と呼ばれ、古城はその名の所在地である。現代の県城のなかの一画で、城門、大通り、役所の大堂、そして周囲のトゥチャ族の屋根をもつ。城壁より称号のほうが重要だった。冉氏の土司政権は1314年に宣慰司を授かり、武陵山で最も強い土司の一つに育った。現在の秀山一帯の楊氏五土司を翼下に収め、西の烏江の水路と東の沅江の水路の両方を押さえた。この地での府城は、道に税をかける免許であった。城壁は短く、免許は長く効いた。だからこそ、この一画が府城として選ばれた。
雑誌から
酉州:酉陽の土司の城壁の府
酉陽の県城のなかの旧府城と、そこから武陵の地を治めた土司政権。
同じ街をめぐる · 酉陽トゥチャ族ミャオ族自治県 ↗称号をもつ所在地
土司の終わり
清は1728年から1735年のあいだにこの仕組みを終わらせた。地方の支配者を外から送った役人に替えるもので、改土帰流、すなわち土の官を改めて流の官に帰す、と呼ばれる。トゥチャ族の地域はこの期間に中央の支配へ戻り、酉陽は1735年、改制ののち直隷州として再編された。城は形を保ち、機能を失った。大堂は別の種類の役所になり、城門は防衛ではなく標識になり、通りは市場になった。中国の行政史は、一つの理由で重要だったのち別の理由を探さねばならなかった町で満ちている。
六十万人の県
城壁の外の県は、城壁が示せないほど人口が変わった。2020年の国勢調査では607,338人、トゥチャ族83.54パーセント、ミャオ族8.93パーセント、漢族7.30パーセント。面積5,173平方キロは重慶最大の県級行政区である。旧土司の都はいま、いくつかの見どころの一つにすぎない。北の桃花源、烏江と阿蓬江が出会い明清の家が二百余り残る龔灘、木の通りの龍潭、そして60キロの烏江画廊。酉州はその他を説明する一つだ。その一帯の政治がここにあったからである。