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塩からできた県

県より先にあった塩の役所、国の宝を意味する名、そして15,000戸の移住。

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役所が先に来た

宝坻の土地の言い習わしは、塩の役所が県より先に来たというもので、記録もそれを支える。天福3年、938年、後晋は燕雲十六州を遼に割譲し、遼はこの地に新倉鎮を置いた。塩はすでにこの場所が重要である理由だった。唐の中葉以降、天津の一帯は米と布が北へ運ばれる道となり、芦台に塩場が、宝坻に塩務と倉庫の施設があった。塩を治める場所は、穀物を育てる場所より王朝にとって価値が高い。役所が県に二世紀余り先立つのはそのためである。

15,000戸

この県は人を動かしてつくられた。大定12年、1172年、金は香河県の東部から15,000戸を移して宝坻県を置き、治所を新倉鎮に定め、初代の県尹に王䘰を置いて振威将軍の号を授け、治所の周りに土の城壁を築いた。名は塩についての一語である。塩は国の宝であるから宝坻と名づけたのであり、その語は都の典籍を貯えるようにこれを蓄える意をとる。およそ山のように貴い、と訳せる名は、財政についての宣言である。

七つの役所の一つ

県が置かれた翌年、ここの塩の行政は統合された。大定13年、1173年、塩の検査所と永塩の役所が宝坻塩使司に統合され、金の七つの塩使司の一つとして、中都路一帯へ塩を供給した。この場所が何のためだったかは、これが最も明快に語っている。たまたま塩のある市場町ではなく、国の専売品を一路に配る行政の中心だったのだ。2020年の国勢調査では722,367人。潮白新河が今、区全体を貫いて流れ、記録の大部分を塩を軸に組み立ててきた土地を過ぎてゆく。

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