炎帝の墓は単一の場所ではなく、いくつもの場所で主張されているもので、文献も実際の埋葬場所を確かめられないと慎重につたえる。宋(960〜1279年)以降、朝廷が公認しているのは湖南省東部の炎陵県にあるこの場所で、供えは漢(紀元前202〜紀元後220年)の時代にまでさかのぼると伝わる。廟は宋の初期、太祖の乾徳の年に創建された。文献によれば、朝廷は墓をこの地に定め、丘の前に廟を建て、神の像を安置して供献することが記されている。境内は全国重点文物の指定を受け、近年の指導者の揮毫も残され、国家郵便局が切手も発行した。ここは廟と墳丘を一か所に集めたところであり、古い文献がその周囲で引用される。西晋(265〜316年)の皇甫謐(こうふひ)は帝が長沙の周辺で没し葬られたと記し、後の学者羅泌(らひつ)は長沙の茶の国のもっとも外れに葬られたとした。
雑誌から
最初の農耕者の墓
炎帝の陵墓は、農耕と本草を発明したとされる伝説の君主を祭る。炎陵県では歴代が官を遣って供えをおこない、参拝者はいまも清明の節と七月初七に集まってくる。
同じ街をめぐる · 衡陽市 ↗墳丘と境内
誰が、いつ来るか
炎帝の祭祀は古い国家の儀礼である。宋以降、中央政府は炎陵の陵墓を公認の墓として定め、『宋会要』『明会要』、清の律令に記し、朝廷の名義で官を遣って供えさせた。この慣行は代々、記録に残っている。民間の参拝も国家の儀礼と並行して続く。農暦七月初七と清明(せいめい)の節には、陵墓に集まって盛大な祭典が開かれ、国内はもとより、海峡を隔てた華僑のコミュニティからも参拝者が来る。すべてを貫く中心は祖である。漢民族は長いあいだ、炎黄、すなわち炎帝と黄帝(こうし)を自分たちの始祖と説明してきた。この二人は中国人の始祖として、炎帝と黄帝を共に数える。炎帝への供えは古い儀礼で、先代の国のお祭祀の次第にも記され、『礼記』(らいき)にも定められている。そこで炎帝は夏祭の帝とされる。
語られる彼についての物語
炎帝は、何よりも技を人に与えた者として記憶される。農耕を発明し、鋤を作り、五穀を播いて味を見ることを人々に教えたとされ、また百薬を一日にひとつずつ嘗って薬性を学んだとされる。こうして炎帝は同時に農耕の神であり、医学の始祖となった。炎帝は火神であり竈神(そうしん)でもある。人々に火を起こして料理することを教えたとされ、姓は姜、名は神農(しんのう)で、神農と炎帝のふたりは同一人物とする考えが有力になった。文献は、2004年の学術会議で炎帝と神農が同一人物であるとするコンセンサスが得られたとも記す。陵墓は、伝説上の発明者を具体的な祖先に変え、生きている人がふたたび訪れる墳丘に変え、そして土地が語り続ける農耕と医学の物語をつくる。炎帝の末の娘女媧(ぬわ)は、海に沈んで鳥の精衛(せいえい)に変わったといわれる。
