周敦頤(しゅうとんい)は1017年生まれ、1073年に没した。宋(960〜1279年)代の宇宙論者であり哲学者だった。彼の二冊の短い著作、『太極図説』と『通書』は、新儒教の理論的基礎を据えた。『太極図説』は儒家の倫理を『易経』の思想と道家の自然観に結びつけ、万有は根源において一であり、一が根源であるという形而上学を論じた。この形而上学では、太極と無極が並び、その運動から陰と陽と五行が生成する。この著作を新儒教の集成『近思録』の巻頭に置いたのは朱熹(しゅき)で、朱熹は周敦頤を宋の最初の聖人とした。周敦頤自身は一生、記録係から県令、監察御史まで、小さな官職にとどまり、高く立つことはなかった。だが彼の描いた図は彼の経歴より長く生き、中国の思想を七百年支配した程朱学派の種となった。『通書』は誠を道性の根本に掲げ、聖人を善き生の模範とした。
雑誌から
哲学者と名を与えた流れ
周敦頤は新儒教の基礎となる図式を書き、故郷の道県は彼が号とした濂溪の名を保っている。1017年そこに生まれ、県は濂溪街道、書院、広場がその名を着けた。
同じ街をめぐる · 永州市 ↗人と書
名を取った故郷
周敦頤は永州道州府の営道県に生まれ、いまの永州市道県である。彼の名を守るのは故郷の県だった。晩年に自宅近くの川に敬意を表して濂溪という号を名乗り、没後は周濂溪とよばれるようになり、人物と地名が一つに重なった。道県ではその名が風景にひろがり、濂溪街道、濂溪書院、濂溪広場がその名を保つ。生家の記念施設は道山(どうざん)の東麓、清塘郷の楼田村にあり、記念館、書院、広場がその名のまわりに集まっている。県が彼に持つ主張は直接なもので、哲学者はここで生まれ、彼に名を与えた川が、いまその名を返す場所を通る。名を与えた川が濂溪であり、人物の号と県の地名は同じ二つの音なので、哲学者と故郷は切り離せない。
哲学としての地域性
道県はいま、周敦頤を記憶であると同時にアイデンティティとして守っている。楼田村(ろうてんそん)の記念施設は、記念館、書院、広場を彼の名のまわりに集めている。濂溪街道はその名を県の行政のなかにも持ち込み、哲学が地域の地名に書き込まれている。中国の他の場所でも彼を主張する土地は多く、濂溪の名と濂溪書院は湖南をはるかに越えて江西や広東などにひろがり、それぞれの土地に濂溪書院や記念堂がある。程顥と程頤、そして朱熹(しゅき)が彼の思想を外へ広めた。しかし故郷としての主張は道県のものである。哲学者はここで生まれ、彼に名を与えた川もここで流れる。今日県が見せているのはこの主張である。少ない官職のためではなく、学派を創った図式によって記憶される人物と、その哲学を名にした故郷である。楼田村の記念館、書院、広場は彼を公衆に示し、濂溪の名は哲学を地域性として生き延びさせている。