遺跡は襄汾県城の東北七キロ、陶寺郷にあり、汾河が南へ流れる平野にある。地表には都の気配がない。あるのは空地と区画された発掘区、そしてたどられた城壁の線である。その壁が見つかったのは 1999 年から 2001 年にかけてで、中国社会科学院考古研究所の考古学者たちが、陶寺中期、いまから 4,100 年から 4,000 年前と年代を定めた。囲みは矩形で、内側の面積は 280 ヘクタール。臨汾盆地で見つかった龍山文化の遺跡としては最大である。1988 年に第三回の国の指定を受けた。
雑誌から
陶寺:記録より古い都
汾河谷の龍山文化の城。その年代、280 ヘクタールの中期の城、そして東アジア最古と読まれる半円形の観象台。
同じ街をめぐる · 臨汾 ↗汾河谷の城址
どれほど古いか、なぜわかるか
年代は遺跡の層と、土器を分けた時期から来る。英語の記述は陶寺を晋南の龍山文化晩期に置き、紀元前 2300 年から 1900 年という独立した段階とする。中国語の記述は城を二度の造営に分ける。紀元前 2300 年から 2100 年ごろの 56 万平方メートルの小さな前期の城と、紀元前 2100 年から 2000 年ごろの 280 万平方メートルの大きな中期の城である。死者も同じ階層社会を語る。3 万平方メートルの墓地に 1,500 基を超える墓があり、富は九つの大きな墓に集まっていた。この集中が、単独の遺物よりも強く、初期国家をめぐる議論にこの遺跡を加えている。
観象台と墓
遺跡では半円形に並ぶ夯土の柱が観象台を示し、一部が残る。2003 年から 2004 年に見つかり、東アジア最古の天文台とされる。半径 10.5 メートルの半円に十三本の柱が立ち、直径およそ 42 メートル、面積千平方メートル余りの台の上にあり、その外に直径 60 メートルほどの半円の道と台がめぐる。太陽が柱のあいだを順に昇るのを見ることで、冬至と夏至、一年の長さが得られるという。この読みが受け入れられるかどうかは別として、台は陶寺のうち、発掘の溝から推し量るのではなく、形として見られる部分である。