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老龍頭 潮の中に立つ龍の頭

老龍頭で明の長城の東端は渤海に入る。1381年に城、1579年に海の城壁が加えられ、1900年に破壊され、1984年に修復された。

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動く水の中の石

城壁は水の中で終わる。縁でも、水の上でもなく、水の中である。岸から渤海へ運ばれた石の壇で、海に面する側は水に浸かる。中国名の老龍頭は老いた龍の頭を意味し、その比喩は正確である。城壁は胴のように山から下り、ここが海から水を飲む頭になる。

壇の上に楼が立つ。澄海楼は二階建て、九脊の歇山屋根、桁行三間・梁間二間。上層から三方の水面が見え、西に石河の河口が開ける。城は低く厚い壁の囲いで、潮の届かない高さに人と物資を置くために築かれた。南と東に渤海、北の背後に海岸の道が通る。

北へ地は山海関へ戻り、城壁がそれに従う。ここは関の防備の右翼、関に始まりここに終わる線の南半分である。敷地は今、山海関景区に属する公園で、城壁は壇から北へ途切れずに関へ走る。

岸近くの水は浅く、城は川の淡水と湾の塩水が出会う所に立つ。

山海関の老龍頭。明の長城と海堡が渤海にのびる
写真は老龍頭の景観。明の長城とその海堡が渤海へそのまま走り込む場所である。

二度築かねばならなかった壁

ここの最初の城は1381年、徐達が関城を築いた年に始まる。明の線の海の端であり、その線が海に入る唯一の場所であった。海上の長城と呼ばれてきたが、比喩ではない。明の城壁で塩水の中に立つ地点は他にない。

水の中の石積みは城より新しい。1579年、萬暦七年、薊遼の防備の総兵であった戚継光が石城を渤海へ築いた。1633年、崇禎六年、兵部尚書袁崇煥らは老龍頭に寧海城を築き、城壁のそばにあった観海亭を澄海楼として建て直した。城・楼・壁は一つの陣地として働く。水の中の石の基、見張るための楼、そこへ人を下ろす壁である。海を望む楼が最初に築かれた地という言い方もここに掛かる。

この位置は関の形も説明する。山海関の左翼は北へ角山、三道関、九門口を経て山に入り、右翼は南へこの地点へ走った。両者の間で関は海岸の道を扼し、海の城が最後の隙間、濡れた隙間を閉じた。

この地は明の海防の兵営として最もよく残るものともされる。城壁ではなく囲いについての話で、駐屯の住まいと倉が他の防備の失われた後に残った。

1900年と1984年

1644年、城の目的は陸側から試された。李自成は40,000人余を関へ向け、呉三桂はドルゴンに開いて150,000の清軍を入れた。戦いは石河へ移り三日続いた。城壁の海の端は破られず、背後の門が開けられただけである。

1900年、八カ国の連合軍のとき、老龍頭は山海関の戦いで損なわれ、城は連合軍の陣営に使われた。軍を中国の外に留めるために築かれた壁が、その壁の向かう海から来た軍に占領された。

修復は1984年に来た。区間は建て直され、敷地は山海関景区の公園として再開した。この年が重要なのは、城壁の扱いが変わった点を示すからである。研究する廃墟ではなく、維持する構造物となった。同じ時期、1987年に長城は世界遺産に登録され、2001年には山海関が国家歴史文化名城となった。

再建は例の問いを生む。1984年に建て直された壁は、古い形をした現代の構造物であり、潮の中の石壇は城壁の他の区間にない力に曝される。塩水は目地を侵し、潮は運び、また戻す。ここの維持は通路の草を除くことではなく、汀線の石を替えることである。

古い名はそのすべてを越えて残る。龍の頭は今も水を飲み、城壁の胴は北へ関へ走る。道は門を抜け、山が始まる。

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写真の出典と権利情報
  1. 写真は老龍頭の景観。明の長城とその海堡が渤海へそのまま走り込む場所である。S.flaischlen · CC BY-SA 4.0 元写真の出典 ↗ 権利情報 ↗ WebP形式に変換。