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山海関 城壁が道に出会う関

山海関は1381年、山と渤海の間の関城として築かれた。四門、四つの甕城、四隅の楼は明を通じて補修され、東門の額が今に続く名を定めた。

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四門と四甕城

最盛期の関城は四面に門を持ち、門の外に甕城があった。城壁に囲まれた区画で、最初の扉を破った者を閉じ込める。門の上には箭楼が立つ。東は鎮東楼、東を鎮める意、西は迎恩、南は望洋、海を望む意、北は威遠、遠きを畏する意である。東南角の楼は靖辺楼、辺りを静める意で、1479年、1587年、1591年に修復された。

東門の両側には三つの二階建ての付楼、臨閭・牧営・新が防備を強めた。城内の中央には鐘鼓楼が立ち、最初は中央のわずかに北に建てられ、1471年に修復され、1586年に中央へ移され、1611年に上層を除かれて一階建てとなった。

甕城は軍事的なだけではなかった。東の区画には関帝を祀る廟と陳公祠、西には別の関帝廟と忠臣の祠、南には福を増す神・増福の廟、北には薬王の廟があった。名を負うのは東門である。鎮東楼の上層北側の軒下に、天下第一関と書いた額が掛かっていた。

山海関の関前に立つ石牌坊。
山海関の関前に立つ石牌坊。

一年で築かれた関

1381年、洪武十四年、明の始祖は建国の将の一人、徐達に関の築造を命じた。徐達は山海衛を薊州の駐屯の下に置き、十の所、30,000人余を抱えた。衛の領域は東は遼東の境、南は海、北は八十里にして義院口、西は撫寧県に及んだ。

防備は二つの道に組織された。山海路は十の小関を統べ、南海口・北水・旱門・角山・三道関・一片石などの関を含む。石門路は内陸の道を管した。城の北、なだらかな地を越えて左翼の城壁が走り、地が高まる所で城壁は角山、三道関、九門口と尾根を登った。城の南には右翼の城壁が走り、渤海へ築いた石城に終わった。

戚継光の下で線は厚みを増した。関の前面に二十三の墩臺、1570年には内側へ十四の烽堠、1579年には海に石城と、二つの角楼・七つの墩臺・一つの門楼を備えた0.24平方キロの東羅城が築かれた。1618年には総兵が置かれ、関の内外に五つの城、十四の翼、三十六の営があった。1621年から1625年、兵部尚書孫承宗は城壁の外に九つの大堡と四十九の小堡を築き、関寧錦の線と呼ばれる連なりとした。

石河の戦い

1644年、明は倒れ、関は転換の蝶番となった。李自成は40,000人余で北へ進み、山海関を守る明の将・呉三桂から関を奪おうとした。呉三桂はドルゴンに門を開き、150,000の清軍を入れた。石河の戦いは三日続いた。数の劣る農民軍は廬龍県へ退き、立て直し、再び破れ、李自成は都へ逃げ帰った。清は呉三桂の開いた門から中国内地へ入った。

建造物の補修の記録は密である。鎮東楼は1556年、1585年、1610年に修復され、西門は1558年と1611年、靖辺楼は1479年、1587年、1591年。威遠楼は1611年に建て直され、のちに火災で失われた。記録はその年を定めない。1633年、袁崇煥らは関の外に南北の翼城を築いて0.216平方キロを覆い、兵・糧・弾薬を置き、城壁の端の観海亭を澄海楼に改めた。西羅城の工事は1643年に始まり、完成しなかった。

山海関は2001年に国家歴史文化名城となり、河北の五つのうちの一つである。現在は秦皇島の区で、市の中心からおよそ15キロ、年平均気温11.2度、降水量613ミリ。

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写真の出典と権利情報
  1. 山海関の関前に立つ石牌坊。PQ77wd · CC BY-SA 4.0 元写真の出典 ↗ 権利情報 ↗ WebP形式に変換。