扁鵲廟は、内丘県城から西へ21.8キロの村、神頭にある。鵲山と呼ばれる丘の下の斜面だ。廟はいくつもの名を負ってきた。鵲王廟、鵲山祠、そして鵲山応感神祠である。最も古い記録は北魏の地理書にある。太和21年、497年、その書は中丘の地の一つとして鵲山の祠を挙げている。中丘とは内丘のことである。1268年の石碑は修復を記し、鵲山応感神祠と題されている。それによれば、漢と唐の昔からここに像が保たれ祭祀が行われ、五代の末には幾度も破損し、後周の顕徳年間に節度使が再建した。当時の碑文はすでに神に王の号を与えていた、と付け加えている。1750年に刷られた順徳府志は、その同定を一行で繰り返す。鵲山の廟は扁鵲を祀るためのものだと。1668年の県志は同じ句を別の言い方で置き、創建の年は不明と注記し、宋の仁宗が応感神の号を授けたと記し、三月の初旬には千里四方から参拝者が集まったと付け加えている。
雑誌から
扁鵲廟 内丘の医者の祠
扁鵲廟は河北の内丘の西、神頭にあり、記録に初めて現れるのは497年である。石碑は戦国の医者を王の位にまで押し上げた信仰の跡をたどるが、その名の背後の伝記は『史記』の物語に支えられている。
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名の背後の医者
扁鵲は紀元前407年ごろから前310年ごろ、戦国時代の人とされる。そして扁鵲は名前ではない。姓は秦、名は越人。扁鵲という名は黄帝の時代の伝説的な古い医者のもので、司馬遷は、この医者が趙の国で働くときにそれを名乗ったと記す。別に、働いた土地にちなんで盧医とも呼ばれた。伝承は彼を鄚州の生まれとする。現在の河北の任丘である。華佗、張仲景、李時珍とともに帝制中国の四大医師に数えられ、脈診を確立したとされる。『史記』は四つの事例を載せる。働いていた宿の老人から授かった、体の内を見通せるようになる薬。趙簡子の診断。虢の太子の蘇生。そして治療を拒んだ君主の診察である。虢の話が最も具体的だ。太子は昏睡し、扁鵲は頭頂の百会に一針を刺し、太子は目を覚まし、薬を飲んで二十日で回復した。『難経』は彼の作とされ、その名を冠する内外経は失われ、成都で出土した竹簡の一部は彼の手になるものかもしれない。
石碑が伝えるもの
この廟の歴史は、主に修復の記録に読める。1031年、天聖年間の回廊の修理を記す碑があり、その後の建物は四方に輝いたと伝えられる。別の碑は1069年、神宗の治下の修復を記し、重檐と幾重にも連なる側殿を残した。1190年、県令の趙氏が再建を監督し、梁に彩を施させ、垂木を彫らせた。碑文は、廟がこれほど整ったことはかつてなかったと誇っている。1223年、節度副使が古い基壇を建て直し、太医院の医師が資材と人夫を集めた。さらに1487年、1587年、1621年、1896年の造営が記録されている。1668年の県志は、元の学者王鶚と明の官僚謝遷がともに祠の記を残し、幾世紀にもわたって詠まれた詩は数えきれないと記す。要点はその型にある。497年に初めて記された祠が、北魏の地理書から清の修復まで、十四世紀にわたって切れ目なく庇護の記録を持つ。その神は地方の人物から十世紀までに王となり、さらに宋の皇帝が授ける号を得た。この遺跡は全国重点文物保護単位に指定されている。石碑が決められないのは伝記である。石碑が記すのは信仰と建物であり、生涯ではない。号の背後の人物は、同時代に書かれた何かではなく、司馬遷の物語を通じて知られている。
