二重の城壁が都市の配置を示す 八連城は琿春河平野にある。現在、遺跡内には畑や水路が広がる。考古学者が測量した外郭は約707×745メートル、内側の区画は約216×318メートルの長方形である。大きな外郭の中に小さな城郭が収まり、中央の宮殿地区と広い外側の都市とを分けていた。

遺跡の配置図は、何世代にもわたる測量と発掘を通して少しずつ組み立てられてきた。20世紀初頭の調査を振り返る2013年の論考は、1950年代以降の農地開発や水利事業によって景観が変わり、古い地図が後年の発掘と並んで役立つようになったと指摘する。2004年から2009年に調査した考古学チームは城壁を測量し、南門の位置を確認し、内側の区画をたどった。耕作地に残る計測線と低い基壇から、都市の配置を読み取ることができる。

門の先に、かさ上げされた宮殿基壇が続く 南門は内城へ入る道筋を形づくる。外門には通路が一つある。内門は幅広い基壇の上に立ち、両側にはそれぞれ3本の階段が設けられていた。その北側では、発掘調査により都市の中心軸に沿った宮殿跡が確認された。最大の基壇は約42×26メートル、畑の地面から最も高いところで約2メートルの高さがある。

さらに北には、もう一群の建物跡がある。正殿と脇殿は回廊で結ばれ、東西には屋根付きの渡り廊下が延びていた。この配置が中庭と広い前庭を囲む。図面として見ると、外郭から門、階段、かさ上げされた殿舎へと人の動きを導く一連の道筋が、建築に組み込まれている。

屋根瓦が建築の技を伝える 発掘調査では、煉瓦と陶製の屋根瓦が大量に破片で出土した。基壇からは建物があった位置を知ることができる。一方、屋根の材料はその上で行われた仕事を伝える。広間を覆うために焼かれた瓦、形を整えた軒先の部材、繰り返し並ぶ瓦である。発掘した研究者は、出土片を使って工法を調べ、宮殿建築をほかの渤海遺跡と比較した。

煉瓦と瓦は、基壇に材料の語彙を添える。門の基壇、回廊、中庭からは建物の配置が見え、屋根瓦の破片はかつて地上にそびえていた建物を伝える。考古学者は出土品を土層や建物の遺構と組み合わせ、遺跡がどのように築かれ、使われたのかを読み解いている。

図們江下流域に置かれた東都 史料によると、785年から794年にかけて、八連城には渤海の東都が置かれていた。その都市計画は、よく知られる上京龍泉府とは異なる。八連城には主要な城郭が二重に築かれたのに対し、上京には三重の城郭があった。どちらも城壁、門、庭を通じて王の空間を構成したが、琿春の遺跡には独自の配置がある。

平野には、城壁、南門、かさ上げされた宮殿基壇、回廊跡、屋根瓦の破片が点在して残る。測量図と近年の発掘を合わせることで、今では地上に建物が立っていない政治の中心地をたどることができる。八連城が東都とされるのは、物理的な遺構と歴史記録が結びつくからである。