三度の訪問を石に刻む 阿什哈達の川岸の岩壁には、詳しさの異なる二つの明代の刻文が残る。古い刻文では役人の姓だけが「劉」と記され、より大きな文面では遼東都司の指揮官、劉清と特定されている。刻文には、この松花江区間への訪問が3度記される。永楽18年(1420年)、洪熙元年(1425年)、宣徳7年(1432年)である。また、最初の訪問時に龍王廟を創建し、3度目の訪問時に再建したと書かれている。一度の落成を記念するだけでなく、川への三度の訪問と廟の二つの建設段階を記録した文面である。
したがって岩壁の記録が伝えるのは、一度限りの奉納ではなく、繰り返された仕事である。刻まれた年次には、名を記された役人、三回の任務、地元の廟が結びついている。省の地誌は、刻石の近くに造船区域があったとする一方、石そのものは官の任務と日付を記録する。川岸が遠くの行政機関にも把握されるようになった経緯を、簡潔に伝える資料である。
船、穀物、長い帰路 吉林市政府の2012年の歴史紹介によると、明の永楽7年(1409)、吉林に造船基地が置かれ、遼東都司と奴児干都司を結ぶ役割を担った。基地では官兵、穀物、褒賞品、貢物を運ぶ船が造られ、人員と物資の中継地にもなったという。吉林省地方志が記す劉清の松花江での三度の造船は、この事業を地域史の中に位置づける。両資料を合わせると、造船が川沿いの人員・物資の移動と結びついていたことがわかる一方、摩崖碑文とより広い行政史の証拠範囲は区別される。
碑文は旅程と寺院建立の地域的な経緯を伝え、市の歴史紹介は人員や物資を運ぶ河川網の中にその事業を位置づけている。
別の時代へ受け継がれた地名 「造船所」という歴史的な呼び名は、吉林の川の歴史における複数の時代にまたがる。省の地誌によれば、明代の作業場は戦乱や清朝初期の入植制限のなかで次第に姿を消した。1656年、清朝政府は吉林で再び船を造る。今度は川の国境を警備するためで、地誌は後の造船所という地名をこの清代の施設にも結びつけている。これは国家が船を建造した別々の出来事であり、明代から清代まで一つの工房が連続して稼働したわけではない。
後の歴史を知ると、建物がなくなった後も地名が残り、意味を重ねることがあるとわかる。阿什哈達の刻石は劉清による明代の任務を伝える一方、吉林の後代の造船所は別の政権と軍事上の状況に属していた。記録を並べて読むと、輸送や防衛のために繰り返し使われた川の道筋が見えてくる。同時に、二つの造船史を区別して理解できる。
刻石を文化財として守る 刻文の近年の歴史は、保全に向けた一連の決定に表れている。1990年、市の保護事業は刻まれた岩を補強し、監視所と金属柵、ガラス覆いを設けた。2002年には歴史展示館が開館。2006年に中国の第6次全国重点文物保護単位に指定され、2010年には実測調査と保護計画が続いた。地元史のなかで記憶されてきた川岸の岩場が、公共の文化財保護制度のもとで管理されるまでの変化を示している。
保護の枠組みは、人々が岩に近づく方法も変えた。補強は岩壁が風雨にさらされる状況に対処し、柵やガラス覆いは刻文の周りに境界を設けた。展示館は造船史を広い文脈のなかに置いた。吉林明清造船廠遺址博物館は2012年に正式設立された。その施設の歴史は明代の記録よりも後まで続き、刻石が保存、解説、市民の記憶を担う文化財になっていった経緯を伝えている。