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台児荘:3キロの古運河と二週間の巷戦

徐州の北東三十キロにある運河の町。1938年3月と4月に路地ごと戦い、その後に中国最大の古城として再建された。

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船が止まったからできた町

台児荘の富はいつも、そこを通る水路から来ている。棗荘域内で知られる最も古い運河は春秋時代に開削された偪陽運河で、京杭大運河の棗荘区間は1604年に開削され、台児荘・嶧城・薛城・滕州を経て93.9キロメートル伸び、微山湖を主要な水源とする。旧城には明と清の運河が3キロメートル残り、環城河と交わる。今区全体の緑化率は30.6%である。南北の客と貨がここに集まったため、商人が定住して混じり合った。地方誌は、商人が集まったことが文化の交じり合いを生み、この古鎮を運河文化の典型的な代表にしたと言う。再建された古城は十一の機能区、八つの観光地区、二十九の観光所をもつ。

渡点をめぐる戦い

この戦いは徐州会戦の一部として、1938年3月から4月中旬まで続いた。日軍第五師団は北東の臨沂を攻め、第十師団は滕県と臨城を経て南下した。両路とも撃退された。台児荘は徐州の北東三十キロ、運河北岸にあり、水が打法を決めた。渡河が日軍の意図であり、渡点を守ることが中方の主張だった。第五戦区司令長官李宗仁は孫連仲の第二集団軍を投入し、城壁の内では池峰城の第三十一師が、周囲の部隊が七割を失った後も据え置いた。3月31日、両指揮官が郊外に来た。4月7日午前一時、両翼の反撃が始まり、街路では白兵戦に及び、日軍は嶧城と棗荘の方向へ退いた。

二つの記録の言い分

その二週間に何を払ったか、両側の記録は一致しない。国民党側の公式戦史は、中国軍約46,000人が戦闘に参加し、戦死・負傷・行方不明が約7,500人であったとする。日本『官報』を現代に読み直した研究は、1938年2月20日から4月7日にかけて第五・第十師団の1,346人が戦闘死し、そのうち第五師団188人、第十師団448人が台児荘の地元で死んだと述べる。中国側が当時主張したのは日軍一万人余りの戦死傷で、国民党政府の1938年4月の宣伝指示は、新聞に事実だけを記し、誇張を戒めるよう命じた。李宗仁の評価も控えめだった。抗戦が始まって以来の最初の悦びのひとときだった、と。

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