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鶏鳴駅 北への道の宿駅

懐来県の鶏鳴駅は中国に残る最大の宿駅である。鶏鳴山の下の城壁に囲まれた正方形で、1420年に置かれ、1914年に駅伝が終わるまで公文と旅人が行き交った。22の建物が修復されている。

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鶏鳴山の下の正方形

町は懐来県、鶏鳴山の下の平地にある城壁の正方形である。煉瓦の化粧の一部が残り、町はいまもその線の内側にある。城壁が囲むのは集落の全体であり、寺や役所ではない。まずそこに気づく。ここで守られる単位は町である。内部の街路は村ではなく駅の形を保っている。責任者の役所、駅伝を司る堂、旅人の宿、倉、運搬具の蔵、厩である。22の建物が修復され、検査に合格した。その一覧は十七世紀の街の案内図のようだ。玉皇閣、魁星楼、守備の署、駅の宿、駅丞の署、文昌宮、永寧寺、龍神廟の戯台と関帝廟の戯台、そして楊家、孟家、李家、黄家、閻家の旧宅、馬家の宿、徳勝の宿、万宝昌の店、薬舗、閻家と陳家の店、質屋、崇信永が並ぶ。二つの廟の内部には彩色が残る。泰山行宮と財神廟である。後者の門には四字の木額が掛かる。異姓同心。劉備、関羽、張飛の誓いに由来する言葉で、血のつながりのない者どうしが互いに信を保たねばならなかった宿駅にふさわしい。

懐来県・鶏鳴駅の屋根と路地。
懐来県・鶏鳴駅の屋根と路地。

四百九十四年

駅は1420年、永楽十八年、元の駅站の基の上に置かれ、都から北へ出る道の最初の大きな駅となった。別名を鶏鳴山駅といい、その下に立つ山にちなむ。以後1914年まで、公文、官僚、貨物を北西へ、そしてロシアへ運んだ。その稼働期間は494年とされる。1913年、北洋政府は旧来の駅站を廃し、代わりに近代郵便を開くと告げ、駅伝の機能は翌年に終わった。その後、町は自らの城壁の内側の村になった。1980年に再び調査され、2001年には第五次の全国重点文物保護単位に入った。ワールド・モニュメンツ・ファンドは2003年と2005年に、世界の危機にある百の遺跡にこれを挙げ、2005年末には中国歴史文化名村に指定された。旅人が記憶するのは賀家の住宅である。八カ国連合軍が北京に入った後、西太后が西へ逃れる最初の夜を過ごした家で、彼女は後にその家に四字を与えた。喜びと福を受ける、という意味である。2019年、武夷山から河北、内蒙古を経てキャフタに至る茶路が中国の世界遺産暫定リストに入り、鶏鳴駅はその計画に含まれる張家口の五つの遺跡の一つとなった。

修復、住民、そして道

修復は2016年に終わり、22の建物が検査に合格した。城壁は2011年に補強され、2010年には省の十大文化的景観の一つに選ばれていた。そこに残るのは、人が住み続ける記念物である。それが難しさであり、同時に要点でもある。鶏鳴駅に対してなされる保存の議論はこうだ。駅の町は稼働する集落であり舞台装置ではない。だから元の住民は残るべきで、街路の商業的な建て替えは抑えられるべきである。記録することも論じられている。城壁と駅丞の署の実測図とデジタル模型である。建物は三種の証拠に分かれる。駅伝の施設——役所、宿、倉、厩——は制度がどう動いたかを示す。廟と、駅の学校が置かれた文昌宮は、駐屯の町の人が見えざるものに何を求めたかを示す。店、質屋、宿は、道が紙だけでなく交易も運んだことを示す。2023年、北京の延慶区と張家口の文化観光局が遺産の道を開き、鶏鳴駅を五番目の地点とした。いま駅は見物の対象として訪れられる。かつて建てられた目的とは別の機能である。泰山行宮と財神廟の壁画は、修復では代替できない内部の部分である。漆喰の上の絵は煉瓦より長くは残らない。城壁は同じだが、行き交うものは違う。

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写真の出典と権利情報
  1. 懐来県・鶏鳴駅の屋根と路地。Zeus1234 · CC BY-SA 3.0 元写真の出典 ↗ 権利情報 ↗ WebP形式に変換。