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避暑山荘と、壁の外の寺々

清の皇帝は毎夏、北京を離れて承徳の囲われた谷へ向かった。宮殿、湖、草原が89年かけて配置された。壁の外には外八廟がチベット・中国・折衷の様式で立ち、帝国の辺境の客を迎えた。両者は一つの世界遺産をなす。

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谷を囲む十キロの壁

承徳の避暑山荘がまず訪れる者に受け入れさせるのは壁である。敷地の周りをおよそ十キロ巡り、高さ3メートル、北の辺境線に似た形から小長城と呼ばれる。中では地が湖へ落ち、草原へ開き、やがて森の丘へ上がる。

正門は麗正門、1754年の建立である。門の上に名が五つの文字で刻まれる。漢・満洲・モンゴル・チベット・ウイグル。乾隆帝が名づけた三十六景の第一である。

門の先が宮殿区で、北京の紫禁城の小さな響きとして計画された。前の庭は高官、辺境の貴族、外国の使節を迎え、居住の場がその後にあった。皇帝の寝室、澹泊敬誠殿は1711年に建てられ、その高さと水から動く空気により康熙帝が名づけた。

宮殿の西と北では庭園が主となる。湖区は南方の庭園から建物を借り、青蓮島の煙雨楼は浙江嘉興の南湖のほとりの楼に倣う。平原はモンゴルの草原のように整えられた。丘には高さ70メートルの石塔が立ち、1751年に完成、基は八角、九層の瑠璃瓦の上に金の相輪が載る。

承徳の避暑山荘、城壁に囲まれた敷地内の湖区
清の朝廷が夏の都とした承徳の避暑山荘。城壁に囲まれた敷地内に湖区が広がる。

八十九年の造営

着工は1703年、康熙四十二年、1708年にはすでに使えた。1711年、康熙は今に続く名を定め、自ら額を書いた。工事は康熙・雍正・乾隆の三代に続き、1792年におおむね終わる。八十九年、5.6平方キロの敷地、120余りの建築群、100,000平方メートルを超える床面積。承徳の市街のほぼ半分を覆う。

宮廷は毎年ここへ移った。皇帝はふつう旧暦の四月か五月に着き、九月か十月に北京へ戻った。その数か月、山荘は第二の政治の中心であり、辺境の長、仏教の高僧、外国の使節が迎えられた。康熙は寝室で十二の夏を過ごし、乾隆は五十二を過ごした。

壁の外の寺は同じ仕組みに属した。十二が山荘の周りに建てられ、八つが北と北東の丘に立つ。数が多いのに外八廟と呼ばれるのはそのためである。さらに四つが武烈河の東にある。康熙の代の二つを除き、すべて乾隆年間の建立である。モンゴル・チベットの臣民との関係を扱う理藩院がこれを管理した。

対比は意図的であった。壁の内の建物は素朴で静か、外の寺は金を帯びる。1994年、宮殿・庭園・寺は一つの世界遺産として登録された。

二つの死を抱えた寝室

澹泊敬誠殿は多くの訪れる者が覚えている部屋である。装飾のゆえではない。嘉慶帝は1820年9月にここで死んだ。1860年10月、咸豊帝はその西の間で北京条約に調印した。殿の外の石がこの出来事を国辱として今に伝える。同じ建物で1861年8月に彼は死んだ。夏の寝室に二つの帝の死と一つの条約。

この地が示すより大きな論は景観についてである。敷地の南東はほとんど水、北西はほとんど山、その間に草原と森が横たわり、庭園は清の統治した地形の幅を抱える。その読みが、湖が江南を模し、平原が草原に見え、丘が森のまま残る理由を説明する。

全国重点文物保護単位であり、承徳は中国で最初に名を挙げられた二十四の歴史文化名城の一つである。2018年、壁の内の凍った湖で女子バンディ世界選手権が開かれた。この大きさの庭園なら形を変えずに受け止められる使い方である。

保存は二つの時計で動く。宮殿区は木と瓦と彩色、外の寺は金箔と漆喰と瑠璃瓦。どちらも一つの世界遺産に属するが、仕事は同じではない。庭園は使われ続けることで保たれ、寺は修復されることで保たれる。両者を囲む壁は敷地でもっとも素朴な構造物であり、その限界を定めるものである。

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  1. 清の朝廷が夏の都とした承徳の避暑山荘。城壁に囲まれた敷地内に湖区が広がる。xiquinhosilva · CC BY 2.0 元写真の出典 ↗ 権利情報 ↗ WebP形式に変換。