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円を囲む諸機関:大連・中山広場を読む

ホテル、銀行のドーム、市庁舎の屋根。それらは、歴代の統治権力が近代の港町を建築でどう表したかを伝える。

同じ街をめぐる · 大連 ↗
白い縁取り、緑の屋根、先の尖った時計塔を備えた赤煉瓦の建物が、近代的なオフィスビル群の下に立つ。
中山広場にある旧大連民政署。

外観より先にあった計画

最初の手がかりは、円だ。中山広場からは街路が放射状に伸び、一本の記念碑的な大通りではなく、共通の中心に視線を集める。旅順博物館の建築史の解説は、この配置を、ロシアが1898年に租借権を得た後に開発した商港ダルニーの計画にさかのぼらせている。1899年の計画は放射状の構成を採用し、市街を行政区、ヨーロッパ人地区、中国人地区に分けた。

図面は整然として見えても、不平等な権力関係を表すことがある。地区の呼び名は、これが単なる幾何学の試みではなかったと教えてくれる。計画は、将来の都市の中で、異なる住民と機能に異なる場所を割り当てた。都市設計として広場を読むには、描かれた線だけでなく、誰に計画する権限があったかから考える必要がある。

ヨーロッパの形、日本の発注

日露戦争によってロシア側の建設が中断された時点では、円を囲む壮大な建物の多くはまだ建っていなかった。1905年以降、日本当局は引き継いだ計画に沿って建設を続けた。したがって、ヨーロッパ風の外観だけでは、ロシアが建てた証拠にはならない。

ふたつの建物が、この違いを具体的に示す。1909年竣工の旧横浜正金銀行は、目立つドームによってその位置を印象づける。1920年の旧大連市役所は、折衷的な構成に日本の屋根の要素を組み合わせている。元の用途も重要だ。銀行は港の金融を担い、市役所は行政の存在を建築で示した。異なる様式を参照しながら、同じ植民地都市の仕組みに奉仕することができたのである。

鉄道ホテルと、その後の都市の名

旧大和ホテルは1914年に完成した。金融・行政機関の隣にあるホテルは、人の到着、取引、一時的な滞在という、港の実務的な世界の一部である。日本統治期、「大和」の名は南満洲鉄道のホテル網と結びついていた。この鉄道会社は、単なる旅客輸送事業者ではなかった。その組織的な広がりを知ると、ホテルがおもてなしの場であると同時に、権力を示す建物でもありえた理由がわかる。

到着した宿泊客、金融取引、市の行政が、同じ円の周囲に集まっていた。設計者がさまざまなヨーロッパや日本の形を取り入れていても、建物が仕える諸機関は互いにつながっていた。

孫文を記念して1946年に採用された「中山」の名は、さらに後の政治的な層を加えている。指定された近代建築群は、2001年に国の文化財保護を受けた。どちらの変化も、建設当時の事情を消すものではないが、建物を理解する枠組みを変えている。

吊り下げられた照明と鏡張りの壁面の上で、白と金の装飾縁が高い天井に曲線を描く。
大連の中山広場にある旧大和ホテルの天井装飾。
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写真の出典と権利情報
  1. 中山広場にある旧大連民政署。出典:Liaoning Provincial Department of Culture and Tourism. 撮影者と画像ライセンスは記載されていません。 · 権利状況不明 元写真の出典 ↗ 元の縦横比を保持し、必要な場合のみ表示用コピーを縮小しています。拡大、トリミング、修整は行っていません。
  2. 大連の中山広場にある旧大和ホテルの天井装飾。出典:Liaoning Provincial Department of Culture and Tourism. 撮影者と画像ライセンスは記載されていません。 · 権利状況不明 元写真の出典 ↗ 元の縦横比を保持し、必要な場合のみ表示用コピーを縮小しています。拡大、トリミング、修整は行っていません。