名は唐の詩人に由来する。李渤は弟とともにこの地に退いて書を読み、鹿を飼っていたという。その鹿は人を解し、数十里を歩いて県城まで行き、主のために書物と紙と墨と筆を買ってきた。李渤はのちに白鹿先生と呼ばれ、江州刺史として赴任すると、ここに楼と閣を建て、窪みに名を与えた。流謫の途にここを通った白居易は、家の白鹿洞に苔むすさまを詩に詠んで彼に贈った。
雑誌から
白鹿洞の松の下で読む
記念物となる前、この書院は山のなかの読書室だった。その学規は、ここに配流されたことのある人物の手になる。
同じ街をめぐる · 九江 ↗物語のなかの鹿
朱熹が再興した書院
いま立つのは唐の旧址ではなく、その廃墟に建てられた宋の書院である。北宋ののち、九江の人々は荒れた跡に書院を再建し、太祖は国子監に命じて経書を刷らせ、これを贈った。評判はたちまち高まり、学生は百人に近かった。十二世紀、朱熹は南康の知事として再び書院を建て、自ら講じ、学規と目的を定め、のちに皇帝の額と宸翰を願い出た。
四つのうちのひとつ
白鹿洞は岳麓、睢陽、石鼓とともに天下の四大書院に数えられた。この比較は比喩ではなく、読書がただ行われるのではなく、組み立てられていた場所だったということである。環境がその営みを説明する。通りではなく細い道をたどって着く山あいの講堂は、長く留まる人のために建てられた場所だ。書院の学規は、いま読むべき文書として読む価値がある。朱熹はそれをそのつもりで書いた。
