水路がそのまま続かない地点に、穀物船が着いたところを想像してください。荷の移動は、水位、難しい接続、障害を越えて船を曳く労力に左右されます。明の初め、淮安周辺の行政が直面したのはこの問題でした。政治権力が北京へ移るにつれ、南からの確実な輸送は帝国に欠かせなくなりました。
地方史の記述は、漕運担当の官吏・陳瑄を1415年の清江浦開削に結びつけています。既存の水路を利用した工事によって、淮河との接続部近くで船が直面する難しさが減りました。一連の水門と合わせて、より使いやすい航路ができました。清江浦のその後の都市生活は、この技術で生まれた機会に続きました。水は単なる町の心地よい背景ではなく、その管理が町を生む助けになったのです。
