535年、元宝炬が西魏の文帝として即位すると、乙弗氏は皇后になりました。宮廷は複数の勢力に挟まれていました。北境では柔然の侵攻が繰り返され、同盟が急務となります。文帝は柔然の公主・郁久閭氏を新しい皇后に迎えました。乙弗氏は宮廷を去り、尼となって仏門に入りました。この婚姻は政治的な取り決めであり、その代償を払ったのは宮廷での地位を譲った女性でした。乙弗氏は元宝炬が即位する何年も前、十六歳でその家に入りました。元皇后であり皇太子の母でもあった彼女の離宮は、単なる私的な身分変更ではありません。
雑誌から
宮廷から山へ——麦積山の乙弗皇后
西魏の皇后乙弗氏が政治的な離宮、秦州での出家生活、崖窟への埋葬へと至った過程を、史書と研究に基づいてたどります。
同じ街をめぐる · 天水市 ↗政治に迫られた婚姻
秦州に暮らす元皇后
正史は乙弗氏を質素で慎み深い人物と記し、十二人の子を産んだものの、生き残ったのは皇太子と武都王だけだったと伝えます。新皇后が乙弗氏の存在を気にかけ続けたため、彼女は秦州へ移され、当時この地域を治めていた息子の元戊の近くで暮らしました。敦煌研究院の記事は、この一時的な滞在を麦積山と結びつけています。山はすでに活発な仏教の中心地であり、彼女は西魏宮廷へ戻ることなく、この地で尼として暮らしました。
密かに抱かれた帰還の望み
正史の記述は物語を痛ましい方向へ進めます。文帝はなお乙弗氏を思い、宮廷に戻れるよう髪を伸ばしておくよう、ひそかに伝えたといいます。その計画は秘密のままでした。540年、柔然軍が黄河を渡り、北境へ進みました。宮廷の官僚は、この攻撃を文帝が柔然の皇后を遇した仕方と結びつけました。政治危機によって、乙弗氏が戻る可能性は閉ざされました。
最後の命令と崖窟への埋葬
同じ史書によれば、文帝は乙弗氏に死を命じる書状を送りました。彼女は息子と会い、仏教式の葬送を求めました。数十人の侍女に髪を剃らせて出家させた後、自室へ退きました。三十一歳でした。息子の武都王は、埋葬のため崖に龕を設けました。研究者は第43窟をその墓所とし、「寂陵」と呼ばれる場所に比定しています。室内の建築は、墓と仏教石窟の両面から研究されています。
洞窟に残る記憶
研究者が引用する史書によれば、文帝の埋葬後、乙弗氏の遺体は永陵へ移されました。それでも麦積山には最初の埋葬と建築の記憶が残りました。この出来事は宮廷外交を具体的な土地へ結びつけます。長安での決定、秦州で強いられた暮らし、天水を治めた息子、そして山に刻まれた洞窟。こうした順序で第43窟を見ると、石窟は仏教像の舞台であるだけでなく政治史の一部となります。

