雑誌から

新年のために絵を描いた町

十六の街と七十二の巷を持つ運河の町が、華北の半ばに新年の絵を供給するまで。

同じ街をめぐる · 西青区 ↗

運河のほとりの名

楊柳青は青い柳を意味し、その名は建物ではなく岸を描いている。町は西青区の北西部、京杭大運河の北岸にあり、天津の中心から十五キロ、区政府の所在地でもある。宋と遼の国境にあった流口という集落から始まり、1214年、金の貞祐2年に鎮とされた。今も使われる名は、元の末か明の初めに定まった。以来四百年以上、一つの仕事がこの町で途切れず続いた。だからこそ、この町は海外で運河ではなく年画によって知られている。

十六の街、七十二の巷

運河の水運が町の形を支えた。清の時代、楊柳青は資料のいう十六の街と七十二の巷に区画され、その目の細かさは、仕事場、絵を乾かす庭、店、倉庫が水から歩いてすぐの範囲に収まるほどだった。繁栄は同時に三つのものを生み、それらはたいてい並べて語られる。木版年画、それを売って建てた商人の邸宅、そして清軍について西へ商いに出る「趕大営」の商売文化で、これは楊柳青の品を西北へ運んだ。これほど小さな町が専門化できたのは、運河が町の後背地より遠くまで売ることを許したからである。

再開発が奪ったもの

20世紀は、この町を段階的に解体していった。1900年、義和団運動のさなか、楊柳青には壇が設けられ、古い建物と年画の作坊の一部が戦火で失われた。1923年、石元士の子孫たちは尊美堂を離れて天津市街へ移り、ほとんどの部屋が売られた。1995年から区は再開発を行い、いくつかの歴史的建造物を残しつつ町の全体の姿を変えた。2000年前後には多くの伝統的な家屋が取り壊され、各家が持っていた画版は散逸するか捨てられた。2002年、区は町の公園を撤去し、川床を掘り直して南運河の旧い流れを戻した。

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