雑誌から
公園が残した村
九寨溝の名は九つの村を数える。公園の内側には三つが残り、家々はいまも定められた参観路の脇で田を耕している。
文 IFreeing編集部読了約2分九寨溝 · アバ
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家の後ろの田
三つの村の一つ、参観路の背後に、小さな田に向いた家がある。低い壁が田と路地を分け、一つの門が両方に開く。参観路は決まっているが、その家の道は決まっていない。配置は記念物ではなく暮らしのものだ。家、庭、田、道、その順である。訪問者はすぐ近くの決まった道を通り、家の仕事は続く。光景はありふれており、だからこそ書く価値がある。村は公園のために整えられた展示ではない。一日が今も家事から始まる場所であり、観光の道はそこを通る最新の道にすぎない。
九つの名、三つの村
九寨溝という名は九つの村を意味する。公園はその数を繰り返すが、数はいまや場所より大きい。景勝地の内側に残る村は三つだけだ。名は、現在の地図と合わない数字を保っている。これは小さな問題ではない。数からできた名は、風景を集落の記録に変えるが、その記録は不完全だ。公園は数を名として使い、目録としては使わない。残る三つは境界の内側の世帯であり、その田と屋根は、湖の付属物ではなく、公園が守る谷の一部である。名と地図は食い違い、谷はその両方とともに生きている。
境界の内側
国立公園の内側の暮らしには境界がある。建築は制限され、耕作は制限され、参観路は決まっている。残った世帯は、普通の村では出会わない規則を受け入れてきた。壁をどこまで上げられるか、田をどこまで広げられるか、客がどの道を通れるか。公園は観光がいまや谷の主要な経済だと述べ、規則はその取り決めの一部だ。取引は金だけではない。私的な庭と公共の道のあいだ、手を入れる必要のある田と時刻を守るバスのあいだの、日々の折衝でもある。村はその折衝の内側で生きており、外側ではない。
村であり、ジオラマではない
村とジオラマの違いは建物ではない。仕事が本物かどうかだ。ジオラマには道の泥もなく、置き忘れた道具もなく、暗くなる前に終えねばならない人もいない。村では仕事は本物であり、同時に見られてもいて、二つの条件が干渉する。屋根を直すのは雨漏りのためでもあり、その屋根が見られているためでもある。公園の六つの絶景にはチベットの文化が含まれ、その言葉は暮らしを風景の一つの特徴に変える。言葉は偽ではない。ただ、滑らかすぎる。よりよい問いは、田はいまも植えられ、家はいまも使うために直されているか、である。
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