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寺の南三百メートル

隋の基壇、1058年の遼の再建、そして踊り手が刻まれた磚の台座。

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真南三百メートル

独楽寺の山門を出て、真南へ三百メートル歩くと、薊州古城の西南角に白塔が立っている。もともとは独立した記念物ではなく寺の一部であり、今日でも二つは一つの場所として読まれている。その形は、もう一度見直す価値があるほど変わっている。下部は密檐式の塔として、磚の軒を幾層にも重ねて築かれ、上部は伏鉢形に仕上げられる。中国の建築史はこの組み合わせを、遼塔のうちでも珍しい例の一つとして扱う。二つの伝統から組み上げられた形であって、一つの伝統から育った形ではない。

古い木を数える

塔の年代は、その時代ごとに使える方法で論じられてきた。伝承では隋代に創建され、遼の清寧4年、1058年に再建されたという。構造内部の木材を炭素14で測定した結果は古いほうの説を支え、最初の建設を千四百年以上前の隋に置いた。1533年、嘉靖12年には塔の前に観音寺が建てられ、塔身が白かったことから、一帯は観音寺白塔と呼ばれるようになった。1976年の地震による損傷は、1983年の大規模な修理で修められた。

踊り手のいる基壇

じっくり見る値があるのは、塔の足もとである。最下部の基壇は花崗岩の石を積んで据えられ、その上に工匠たちは木造の須弥座を磚で模して築いた。寺院の調度で像を載せる、段状に狭まる台座である。その須弥座のくぼんだ格間の内側には、楽人と舞人の浮き彫りがあり、音楽史の研究者はこれを遼代の演奏の実態を示す証拠として扱う。梁思成は1932年に薊州を訪れ、観音寺塔の記述のなかで、隣の観音閣の上層に上り、十一面観音を見て、その向こうに町を望んだと書いている。

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