この工芸には創始者と年号がある。泥人張は清の道光年間に始まり、創始者は張明山、1826年生まれ、浙江省紹興の出身と記される。つまり一家はもともと天津の人ではなかった。十八歳で泥人張の芸名を名乗り、塑古斎という作坊を営んだ。その年齢で個人名から商号へ移ったことに注意したい。この工芸の身分は公的になる前に商業的であり、家の名が物の名として言葉に入った。今は市の第一次国家級無形文化遺産に数えられている。
雑誌から
四十センチの彩塑
十八歳で張明山が開いた作坊、1915年のパナマ一等賞、そして五代の継承。
同じ街をめぐる · 南開区 ↗十八歳と一つの名
パナマ、1915年
国際的な評価は早くに来て、記録に残っている。1915年、張明山の彩塑「編織女工」はパナマ万国博覧会で一等賞を受け、二代目の張玉亭は名誉賞を得た。この博覧会での受賞は、ある種の証拠である。作品が国際的な審査の目に触れたことを示し、この工芸が地方の枠ではなく世界の枠に届いた年を記す。以来五代の継承者が技を伝え、資料がこれを一つの作坊の製品ではなく、天津と中国北方の泥塑芸術の精髄と呼ぶのはそのためである。
大きさと彩色
物の物理的な事実が、その性格を説明する。典型的な作品は高さ約40センチ、室内に飾る架上の彩塑で、素朴で明るい色を持つ。40センチは棚の寸法である。顔が表情を運ぶには十分に大きく、家庭が幾つも持てるほど小さい。彩色は後から加える装飾ではなく、塑形の一部であり、資料が人形ではなく彩塑と呼ぶ理由でもある。全国文聯の主席だった郭沫若はこの工芸に言葉を寄せた。「昨日造人只一家、而今桃李満天下」と。
