嘉峪関は内城、外城、羅城、瓮城、城門という複数の境界で空間を組み立てている。城壁の楼閣は周囲を見渡し、城外の濠は防御を補った。関城の外では、明代の防衛線が地形に沿って壁、墩台、烽火台へと続く。討頼河の崖上には第一墩があり、北側の黒山斜面には懸壁長城が伸びる。いずれも地域の防衛体系に属しながら、それぞれ異なる地形に応じて築かれた。
雑誌から
万里の長城西端に立つ明代の関城
1372年に築城が始まった嘉峪関は、重なる城門と城壁で明代長城の西端を守った。近代都市は、この関城を囲むように発展した。
同じ街をめぐる · 嘉峪関 ↗重層する防御の仕組み
洪武5年の築城
嘉峪関市の遺産紹介は、築城開始を明の洪武5年、1372年としている。嘉峪関は1987年に長城の世界遺産に登録され、ユネスコは長城の西端と記す。この年代は関城を明代の築城事業に位置づけ、敦煌近郊の漢代の関塞より数百年後に置く。素材と空間も異なる。敦煌西方の漢代関塞は開けた土地に残る版築遺構が中心で、嘉峪関は壁、門、楼閣からなる防御建築群として回廊の通行を制御した。
関城を囲む近代都市
嘉峪関市は1965年に設置され、関城から名を取った。県や区を置かない行政構造により、市政府と有名な遺跡が近接している。1950年代末に鉄鋼業が発展すると、20世紀の都市が築城から数百年を経た関城の隣に広がった。市街地の東、新城鎮にある魏晋墓群は別の遺跡であり、関城よりはるかに古い墓室壁画を伝える。明代の防衛、工業化期の都市、そして関城築造以前の墓葬生活が、嘉峪関に複数の時間層を与えている。
