南門の外、それから城内へ

南関清真寺は銀川の南門に名を取る。明末または清初から、モスクはその門の外にあった。1915年城内へ移った。1953年、63間と数えられた礼拝堂を含む中国木造の複合へ拡張され、当時市街にあった七座のモスクの一つだった。地は南環東路・南関である。文化大革命の間、木造複合は破壊された。1981年、共同体は同じ敷地に、アラビア式のドームで再建した。多間の木造礼拝堂は、失われた後に建てられたドーム堂に取って代わられた。どちらも南門の地に属する。金曜の礼拝と共同体の祭日は、63間の木造堂が立っていたのと同じ区画の再建堂に集まる。

2012年に計測された堂

2012年、新華社寧夏と世界宗教研究所が再建堂の調査を公表したとき、敷地は3畝強、床面積2074平方メートルだった。その数字はその時点を固定するものであり、2026年の外観のすべてを覆うものではない。礼拝堂は二階にあり、一辺21メートルの正方形だった。中央に大きな緑のドームが一つ、高さ9.5メートル、その上の新月は地面から22メートルだった。四隅に小さな緑ドームが四つ。壁には二十四の鼓窓が開いた。前面に方形のミナレットが二基追加されていた。内部にはクルアーンの文が刻まれた白大理石のニッチがあった。共同体は金曜礼拝と祭日にそこに集まった。二階の正方形、緑のドーム、鼓窓、ミナレット二基、大理石のニッチが、その調査が置く対象である。

木造の間、それから緑のドーム

二つの建物が、この共同体の地の物語である。1953年の工事は63間の中国木造礼拝堂だった。1981年の工事は、新月22メートル、白大理石のニッチを持つドーム堂だった。一つの共同体が、南門外の敷地から、1915年の移転、木造の拡張、破壊、再建を経て動いてきた。計測は2012年付である。木造堂はすでに無く、緑のドームはすでに立っていた年の堂として記録している。2026年の外観を描写するものではない。記録が示すのは、南門の一つの敷地での建築言語の完全な転換である。失われた木造の間と、代わりに置かれたドーム礼拝堂である。