重慶では、岩の堤で本流から切り離された長く狭い水面を「浩」と呼ぶ。浩の流れは航路より穏やかで、船を入れておくにも都合がよい。龍門浩は南岸の上新街の沖にある浩である。本流を下る船の脇に、もうひとつの静かな流れがある。堤の切れ目が龍門で、古い船着場がこの水を上浩と下浩に分けていた。二つの名は上浩、下浩という社区の名として残った。水の名が、そのまま人の住む場所の名になった。川沿いの道はいま南浜路の一部になり、東水門大橋が架かったとき、「龍門浩月」の古い景が刻み直された。
雑誌から
石梁の背後の水
南岸の上浩と下浩、渡し船、そして開港とともに来た外国の船着場。
同じ街をめぐる · 南岸区 ↗浩とは何か
南岸の役所
1929年、重慶が市になると、玄壇廟に南岸市政事務所が置かれ、南城坪、海棠溪、龍門浩、弾子石の四つの坊を管轄した。1941年、第十一区は六つの鎮に改められ、その中に龍門上浩と龍門下浩があった。1952年に第五区と第六区が合わさると、区政府はまず弾子石に置かれ、同じ年の12月に龍門浩へ移った。1955年10月、第五区は南岸区と名を変えた。これらの坊から育った区は、いま八つの街道と七つの鎮をもち、龍門浩はそのひとつである。水の名が、行政区の名になったのだ。
岸の開港場
1891年に港が開かれ、税関は朝天門の近くに置かれた。1895年の下関条約ののち、イギリスとフランスがそれぞれ川辺の土地を取った。1901年、フランスはこの岸の弾子石の近くに海軍の桟橋と兵営を建て、1902年にはロシアが琵琶山に邸を構え、1912年にはドイツが南山に公使館を置いた。戦時中の連合国の外交施設、すなわちソ連とフランスの大使館、アメリカ海軍武官事務所、フランス海軍兵営の跡は、いま区内の全国重点文物保護単位である。弾子石のフランス水師兵営の通りは龍門浩から岸沿いにすぐの所にあり、弾子石への渡し船は今も出ている。

