この街は市の城壁より古い。地元の言い方も遠慮がない。估衣街は天津衛より先にあった、という。紅橋区、旧天津の北門の東にある700メートル余りの古い衣料の街で、北馬路に沿って南へ、南運河の南岸へ北へ、竹竿巷へ西へ、針市街の斜め向かいに走る。元の時代に馬頭東街、埠頭の東の街として形づくられた。位置を説明する名である。船が着く場所に商人の街が育ち、それを囲う城壁はまだなかった。
雑誌から
城壁より古い街
十二大絹商の八軒を抱えた元の衣料街。1956年に倉庫の列になった。
同じ街をめぐる · 紅橋区 ↗城壁の前
十二のうち八
清末から民国の最盛期、この街には天津の十二大絹商のうち八軒が集まり、その中に瑞蚨祥があった。古着と新品の衣料を扱う商いが街の名の由来で、估衣とは古着のことである。二つの店が指定建築として残る。12号の天津謙祥益絹店と44号の瑞蚨祥で、いずれも市の文物保護単位である。一つの街に商家が集まることは、運河の都市の絹商いが散らばりではなく塊だったことを思わせる。買い手は一か所へ来た。売り手がみなそこにいたからである。
1956年に起きたこと
この街の働きは、一つの行政の行為で終わった。1956年、私営の店が公私合営に組み入れられると、估衣街のほとんどの店舗は倉庫、工場、住宅になり、街の小売は止まった。衰退というより完全な転換である。建物は残り、商いは残らず、買い物の街は国有経済の作業場になった。2011年、市の計画局は歴史地区の方針を定め、この街を歴史文化街区と名づけた。そして今、河北区自身の川沿いの記述には、三岔河口の右岸に再建された商業街として現れる。