1935年1月15日から17日、拡大中共中央政治局会議が遵義旧市街の子尹路にあった貴州軍人・柏輝章の邸宅二階の応接室で開かれた。長征中の紅軍は大きな損失を受け、とりわけ湘江を渡った後の撤退は深刻だった。出席者は第五次「囲剿」戦役の失敗をどう評価するか、その後どのような軍事路線と指導体制をとるかを議論した。
雑誌から
遵義会議:1935年1月、三日間の議論
旧市街の邸宅で指導者たちは軍事的敗北の責任を議論し、長征中の指揮体制を変えた。
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邸宅で開かれた会議
三つの報告、異なる評価
博古は主報告を行い、外部勢力や各革命根拠地の困難を敗北の要因として挙げた。周恩来の軍事報告は戦略・戦術の誤りを認め、指揮における自身の責任も引き受けた。続いて張聞天は毛沢東、王稼祥との事前協議に基づき、批判報告を行った。そこでは博古とコミンテルン軍事顧問オットー・ブラウン(李徳)の軍事指揮の誤りが大きな挫折を招いたと論じられた。報告を通して、危機は具体的な決定、指揮責任、撤退の教訓をめぐる議論となった。
会議が変えたこと
会議は毛沢東を中央政治局常務委員に加え、張聞天に決議案の起草を委ねた。長征前に設けられた「三人団」は最高軍事指揮の役割を終えた。記録によれば、朱徳と周恩来が引き続き軍事を指揮し、周恩来が軍事指揮上の最終決定を担うことになった。指揮構造は変わったが、すべての役割が一度に決まったわけではない。2月5日、鶏鳴三省での分担により、張聞天が博古に代わって中央の総責任を負い、毛沢東は周恩来の軍事指揮を補佐することになった。
転換点の後に続く過程
3月12日、苟壩で中央政治局は毛沢東、周恩来、王稼祥からなる新たな軍事小組を設け、周恩来を責任者とした。順序は重要である。1月の会議で指導体制が議論されて変わり、その後の決定で長征継続中の指揮が整えられた。現在の記念施設には会議室に加え、当時の紅軍総政治部旧址や毛沢東、張聞天、王稼祥の居住地も含まれる。これらの場所は、軍が通過していた都市の街並みに政治議論を位置付ける。